『日本が初めて差し出す基地となる』
2016年6月、一通の手紙が沖縄に行くことを決意させた。
米軍基地職員による女性殺害事件、 手紙は被害者と同じ年頃の娘を持つ沖縄の母からだった。
言葉にならない悲しみ『基地があるがゆえ』の怒りをつづっていた。
「真剣に国同士が基地問題に動き、なくして欲しい、本土(全国)の人達には米軍基地のある実態を正しく
知ってもらいたい」と書いていた。手紙の文字がにじんでいる。泣きながら書いたのだろう。同じ悲劇を二度と
生ませないと日本政府こそが、胸に刻むべきだと言いたい。
いてもたってもいられない! 昨年11月、沖縄へ初めて飛んだ。
晴天の那覇空港、出迎えたのは戦闘機の爆音だった。こんな理不尽な音でさえ日常化されているのだ。
右を見ても、左を見ても基地、どこまでも続くフェンスは自分が檻の中にいるように思わせてならない、米軍支配
の現実は想像をはるかに超えた。
20世紀最大の地獄、地上戦があった沖縄の歴史を知るためまず「ひめゆり平和祈念資料館」を訪ねた。
当時のままのガマ(壕)がある。ここで自決を強要され亡くなった幼い子や若者たちを想像して息が苦しかった。
一方、自然は違う。どこまでも広がる青空、一片の雲もない。紅のブーゲンビリア、透き通る海、貴重な生き物が
いるヤンバルの森も。こんなに美しく尊い土地がほかにあるだろうか。

辺野古新基地反対の座り込みが続く、米軍基地キャンプ・シュワブ。
公道には住民を排除するために設置された、尖った鉄板(拷問に使われるもの)が敷かれている。
鉄は鋭く体に食い込む、座れない様にしているのだ。みんなは「殺人鉄板」と呼ぶ。
それでも毎日、おにぎりを作り、少ない年金を交通費にあて、何時間も座り込む島人たち。
80代女性、島袋さんは機動隊ともみあいになり、何針が縫う怪我をしたが、次の日に出てきて、心配する仲間に
言う「70年前、火炎放射機でチリチリに焼かれた、だからこんなの傷じゃない」と。
沖縄の米軍基地は銃剣を突きつけ住民から奪い取った土地なのだ。
政府は「普天間のかわりだ」「負担軽減になる」と言うが嘘だ。座り込みを続けている女性は言う
「辺野古基地を許すことは日本が初めて差し出す基地となる」と。 恥ずかしさと怒りで全身が震えた。

→ 座り込みを続ける皆さんと交流
高江地区でのオスプレイのヘリパット建設
座り込みに参加、高江の闘いは9年経つ。パトカーは工事車両を先導している、サングラスとマスクをした
不気味な機動隊が力ずくで住民を阻む。政府は機動隊に逮捕権を与え、座り込みを暴動として扱う。
「土人発言」を起こしたこの土地に立ち、改めて人権を踏みつけにする権力の暴走を目の当たりにした。
同時に、屈しないと闘う島人の堂々たる姿と綺麗な眼差しが忘れられない。

→ 危険な有刺鉄線が張り巡らせている

→ 機動隊は隠しているが「殺人鉄板」
「不屈館」瀬長亀次郎さん
血まみれの記憶、住民の4人にひとりが戦死した沖縄戦を生き抜き、米軍統治下の中で不屈に祖国復帰と
平和な社会の実現のために、民衆と共に闘いつづけた人、瀬長亀次郎さんの足跡を訪ね「不屈館」へ行った。
瀬長さんは、新聞記者を経て、今の琉球新報「うるま新報」を1946年に立ち上げ、6年後、琉球政府の
立法院議員選挙に出て初当選するが、アメリカの強烈な弾圧を受け不当に逮捕される。
その2年後、49歳で那覇市長選挙に当選する。またもや、米軍の命令で市長の座を剥奪される。
闘い続け1970年には63歳で衆議院議員となり、日本共産党副委員長を務めた。
市民は「我らが亀さん」と呼んだ。初当選後の1952年4月琉球大学で行なわれた琉球政府の創立式典で
米軍への忠誠を誓う宣誓の時、他の議員全員が脱帽し直立不動しているのに、「瀬長亀次郎さん」と呼ばれても
返事もせず、そのまま座り続けた。
道理がある、ハーグ陸戦条約の「占領地の人民はこれを強制して、その敵国に対して忠誠の誓いをなさしむる
ことを得ず」つまり、アメリカへの忠誠は強制されないという約束があるからだ。
恐れることはないと、アメリカに対し抵抗の意志を見せ付けた。
結果、アメリカが最も恐れる男となり弾圧の標的にされた。
しかし、どんな時も亀さんは住民とともに闘ってきた。基地支配で苦しむ、住民を励まし続けた。
資料館の録音テープから聞こえる演説、心に残る一節がある。
校庭に湧き出るように集まってくる民衆を前に「瀬長一人が叫んだならば50メートル先まで聞こえます・・。
沖縄70万人民が叫んだならば太平洋の荒波を超えてワシントン政府を動かす事ができます」と。
また、現在にも通じる言葉がある「民衆のにくしみに包囲された軍事基地の価値は0に等しい」不屈と書かれた色紙と共に。ひるむことのない闘志を感じた。
日本政府とアメリカ、二つの大国を相手に、沖縄は屈しないと闘う翁長県知事の姿が重なった。
どんな時も「住民とともに」この姿勢こそ、不屈と団結の鍵であることを学んだ。
戦争を許さない憲法が輝く社会を住民と共に作っていきたいと、勇気と元気をもらう旅でした。

